4.動員学徒慰霊碑
原爆ドームのすぐ南、平和公園の方からだと公園出口の元安橋を渡ってドームの方に曲がると、少し低くなったところに、この慰霊塔がある。
1944年になると、戦況の悪化に伴って、労働力不足はますます深刻化していく。
物資はどんどん消耗していくのに、労働者は戦線に送られているのだから。
この年の1月「緊急国民勤労動員方策要綱」、「緊急学徒勤労動員方策要綱」、3月の「決戦非常措置要綱」、8月に「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」と、立て続けに法令が出され、これらによって、今でいう中学生以上の生徒は、「動員されて働くことは、学問するのと同じこと」という「勤労即教育」という理念のもとに、軍需工場や農作業などにかり出された。
文部省の統計では学徒の約7割、300万人以上が動員されたという。
さらに1945年3月18日に「決戦教育措置要綱」が出され、今でいう小学校を除く全学校は4月1日から1年間の授業停止となった。
生徒たちは、軍需産業や食糧増産のために、授業のかわりに働かされたのである。
広島でも、多くの学生・生徒が“お国のために”働いていた。あの8月6日、工場労働や強制建物疎開作業に従事していた、国民学校高等科・中等学校・高等女学校の8389人が被爆し、6295人が無惨な最期を遂げたといわれている。
★爆心地から南へ1.1qの雑魚場町(現・国泰寺町)では、広島県立広島第二高等女学校(広島第二県女)の二年西組の生徒39人と引率女教師2名が、午前7時から建物疎開作業を始めていました。建物疎開というのは、空襲されても火災が広がらないように、市街地の一部の建物を取り壊す作業です。建物と建物の間にすきまをつくるために、住んでいる人を追い出して、建物をこわすのです。
平均年齢14歳の女学生たちは、引き倒された家屋の屋根の上から瓦を取り外す作業をしていました。使えるものは再利用するために運び出すのです。一度出た警戒警報は解除されていました。かすかにB29の爆音がして、何人かが空を見上げました。ゆらゆらゆれて落ちてくる落下傘を見た人もいます。原爆とともに投下された観測機器の落下傘です。それを指さした瞬間、ものすごい光と轟音で、何もわからなくなりました。
教師2人と女学生38人が2週間以内に亡くなり、ただ一人生存した人も、24年後に癌で亡くなりました。
★すべてを戦争のために利用する体制でなければ、学生・生徒たちは、夏休みだったでしょう。学徒動員がなければ、あの日あの時、広島市内にはいなかったはずの若者が、たくさん犠牲になっています。しかも、遮蔽物のない屋外で、暑い中での作業のために薄着だったことで、原爆の猛威〜熱線・爆風・放射線〜をもろに深刻にうけとめるという最悪の条件で被爆することになってしまいました。
戦争は前線の兵士だけでなく、国民全体が動員されるもの、そしてひどい被害はいつも弱い立場の人にふりかかるもの。
原爆ドームを訪れたら、戦争にはまだ行かない、年わかい生徒たちが犠牲になったことを表すこの慰霊塔にも、ぜひ行ってみたいものである。